古書や骨董が好きです。歴史など調べるのことが好きですが、結構あきっぽく中途半端です。素人ですが、見たこと、聞いたこと忘れないうちに書いておきたいと思います。
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西宮八景 考

西宮八景というものがあります。
津努晴嵐 広田夕照 御前帰帆 神呪晩鐘 鳴尾落雁 名次秋月 今津夜雨 武庫暮雪

北宋の頃に、洞庭湖とそこに流れ込む瀟水と湘江が合流するあたりを瀟湘といい、代表的な八つの景観を選んだ瀟湘八景まで遡ることができます。水墨画、漢詩とともに日本に伝わり室町時代には博多八景が選ばれたといわれます。

日本では室町時代に近江八景が、江戸時代以降各地に広まり、現代に至まで八景が生まれその数四百以上ともいわれます。もちろん中国国内はもとより、朝鮮半島、ベトナムなどにも伝わったそうです。次ぎに、西宮八景と、八景のはじまりともいうべき瀟湘八景と、日本で一番知名度の高い近江八景をあげてみます。

(西宮)  (瀟湘)  (近江)
津努晴嵐  山市晴嵐  粟津青嵐
広田夕照  漁村夕照  瀨田夕照
御前帰帆  遠浦帰帆  矢橋帰帆
神呪晩鐘  煙寺晩鐘  三井晩鐘
鳴尾落雁  平沙落雁  堅田落雁
名次秋月  洞庭秋月  石山秋月
今津夜雨  瀟湘夜雨  唐崎夜雨
武庫暮雪  江天暮雪  比良暮雪

西宮八景について、ある江戸時代の文書のなかにみかけたことがあります。その時は江戸期の西宮の文人たちもこんなことを考えていたんだな程度に思っておりました。ところが、この西宮八景。注意してみていますと、いろいろな所でみかけます。ところが、誰がいつどのような目的で選んだかは、現在ではわからなくなってしまっているようです。

西宮の資料は往々にしてそうなのですが、戦災で原文書がなくなっている場合が多いです。かつて書かれたものを、原典を記さないで引用した書物が多いので、同じような記述が至ところで見ることができますが、実際のところはさっぱりわからないということがあります。

目にした範囲で「西宮八景」についてふれているものをあげてみます。

まず、一冊目は昭和16年に発行された「今津先賢遺文集」の巻末の年表です。寛延二年の項に「西宮八景といふもの定めらる」とあります。(その二年後に西宮の歌人、大田道雄が亡くなっています。)

もう一つは吉井良尚著「西宮の文藝」(吉井良尚選に昭和34年3月の稿として)です。以下のように書かれています。

西宮の歌壇 大田道雄(寛文11~宝暦元 1671-1751)は西宮歌人の随一であった。名は介録・不老水と号した。その門下に教へを受けた者、吉井良行・岡良知・当舎敬貞・東向良達・伊丹屋基嗣、岡本敬嗣、加藤古庵らがあり、よく諸所で歌会が催された。神戸生田神社の神主後神孝秀・同重詮なども参加した。(中略)寛延二年西宮の社家東向良達の主唱によって人々とともに西宮八景の歌を詠進した。八景とは武庫暮雪・神呪晩鐘・広田夕照・名次秋月・津努晴嵐・御前帰帆・曲江夜雨・鳴尾落雁を称する。

今津が曲江という古い表現になっていますが、八景があげられ、八景を詠進した年次が寛延二年(1749)とはっきりと記されています。(ここには出典は明示されていません。同一の文章は西宮市史二巻にも収録されています。)

さらにもう一つ。同じ吉井良尚氏の書かれた「西宮随筆 西宮八景について」が昭和49年5月に発行された「西宮文化」19号に掲載されています。

これによると、「名所西宮案内者」別名を「西宮廣田参詣獨案内」という版本とその写本があり、そこにに西宮八景について少しだけ記されているとのことです。(確認していませんが市立図書館に架蔵されているようです)以下のような歌が記されているとあります。

津努晴嵐  今朝見れば 夜こめの霧も吹きはれて 嵐に残る津努の松原

御前帰帆  淡路潟 あはれ浮き世をうみわたり 御前の浜にかへるつり船

鳴尾落雁  洲によする 浪の鳴尾の浦風に みだれて落つる 天津かりがね

入江夜雨  あま小船 入江の雨の暗の夜に とまのひまもる篝火のかげ

廣田夕照  へだてなく 夕日もかげやのこすらむ 廣田の森の朱の玉がき  
 
神呪晩霜  紫の雲井の山の寺の名を よそに黄楊わたる入相の鐘

名次秋月  秋の夜は いづくはあれど有明の 月の名次の名にや照るらむ

武庫暮雪  暮れゆけば 何処かいづく白雪の 高きや武庫の高根なるらむ

歌が書かれているだけで、誰がいつ詠んだかのについては書かれていないとのこと。この情報の提示に加えて吉井氏はこれがいつ頃から称せられていたかについて考察されています。

まず、前掲「西宮案内者」の成立については凡そ宝永から正徳、享保あたりと考えておられます。それは元禄十四年に刊行された摂陽郡談の記事が引用されているからなどとされています。そして八景の記事に附説がないことがさほど古く無いことを語っているのではないかと書かれています。

そして、氏は此の地方の近隣で名勝を宣伝、顕彰する前例をあげ、魚崎の雀の松原と山本復齋の関係について書かれています。雀の松原眺望十景を詠んだ歌というものがあるとも書かれており、このような風潮が復齋と交友関係にあった西宮神社の吉井良信や吉井良行などに移行したのではないかた書かれています。

ちょっと気になるのは吉井氏は昭和34年の時点では寛延二年、東向良達説をとっておられるのに、昭和49年には誰によっていつごろ称されたかはわからないとされている点です。

寛延二年説を裏付ける文献がでてくればよいのですが。そしてさらに気になることがあります。私が以前に拝見した資料と歌が違うのです。本来ですと、すべて謎がとけてからご報告をと思いましたが、このまま忙しさにかまけて、忘れてしまってもと思いますので、こちらに途中経過を報告しておくことにします。尚、別の歌の書いてある資料は所蔵者のご許可が得られましたら、どこかに発表させていただこうと思います。

※参考資料
「名所西宮案内者」(「西宮廣田参詣獨案内」)西宮市立図書館架蔵
「今津先賢遺文集」昭和16年
「西宮の文藝」昭和34年3月『吉井良尚選集』所収
「西宮随筆 西宮八景について」昭和49年5月に発行「西宮文化」19号

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○写真は八景の一つである名次山、かつて名次神社の鳥居があったという碑文のある場所から、北には甲山が見えています。
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by shukugawans | 2014-07-18 12:41 | Trackback | Comments(0)

堀辰雄雑記

朝から、本を探しました。

先日行った、岐阜県郡上の奧にある長瀧白山神社に少しだけ関係のある谷崎潤一郎の『細雪』と、司馬遼太郎の根来について書いてある本です。



探すとでてきません...。


探していない本は出て来ました。

昭和52年刊の堀辰雄全集の一、二巻。
(1976年に筑摩から出たものです。この頃以降の本は紙がよいので、古さを感じさせません)
私が持っていたのは文庫のはずですので、
誰か別の人間が買ったようです。

本を開けると、間に堀辰雄雑記と書かれた
雑誌の無造作な切り抜きが挟んでありました。

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こういう破り方をするのは、祖母か父か私か...
破られた雑誌は何だったか。筆者は誰か。
Noriというサインのある挿絵です。

裏の記事などを見ると、文芸誌でもなく文藝春秋などでもなく、ひょっとすると「ちくま」...わかりません。

堀辰雄と萩原朔太郎第二詩集『青猫』
堀辰雄と室生犀星
堀辰雄と芥川龍之介
堀辰雄とエルグレコ『受胎告知』
堀辰雄と川端康成
堀辰雄と角川書店
堀辰雄と立原道造

など、簡単に書かれた見開きで、参考文献が7種あげられています。
福永武彦が書いた意中の文士たち、内的独白などがあがっていますが、読んだことはありません。

堀辰夫は東京府立三中、現在の両国高校出身なんだ...と、思ったりしました。

せっかくなので、最近seitaroさんがとりあげられている『旅の繪』を読んでみました。

読んでいて思い出したのは、別の本のことでした。

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西東三鬼が書いた『神戸・続神戸・拝愚伝』
最初はホテルが常宿だったけれども、空襲を避けて北野の洋館に移るような戦時中の日常を描いた話しだったような気がします。
戦争中の神戸、北野界隈のことが書かれています。
かなり以前から、神戸、阪神間、大阪を描いたものはできるだけ手元に置こうとこころがけていたため、書評を読んで、どうもこの暗い表紙のものを手にいれたようです。(この本はいまのところ見つかっていません)


実は恋愛小説と、サナトリウムもの、戦時中の話しは、不条理の中での葛藤を描いていて、読むのがつらくなるので、殆ど読まないのですが...


細雪はでてきませんでしたが、同じく長瀧白山神社について書いた、
白洲正子の『かくれ里』がみつかりました。詳しくは後ほど。
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by shukugawans | 2013-09-14 12:33 | Trackback | Comments(7)

江戸川乱歩と苦楽園

明治27年に生まれた江戸川乱歩は早稲田大学を卒業したのち、いろいろな職業を経て大正12年「新青年」に掲載された『二銭銅貨』で文壇に登場しました。

乱歩はその後、初期には欧米の探偵小説に影響をうけたいわゆる探偵小説を発表していますが、しだいに猟奇的な傾向が増し、奇怪ともいうべき通俗探偵小説を書くようになります。そのため、江戸川乱歩というと戦前の女学生が堂々と読むことをはばかるような小説であったことが、北村薫のベッキーさんシリーズ『街の灯』などに出て来ます。

ところで、小林信彦が、谷崎潤一郎邸に原稿を催促にいき、国鉄の夙川踏切で列車事故にまきこまれて亡くなった渡辺温について書いた『夙川事件ー谷崎潤一郎余聞』という一文があります。これはもともと文学界に発表されましたが、『四重奏カルテット』という単行本にまとめられています。

この本は「夙川事件」、「半巨人の肖像」、「隅の老人」、「男たちの話」からななり、江戸川乱歩の推薦でミステリー雑誌の編集長をした小林信彦ならではの作品が集められています。この本のことはまたの機会に書くことにいたしますが、「夙川事件」については乱歩もかつて「探偵小説四十年」ありました。

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『探偵小説四十年』は雑誌に十年以上にわたって連載された自伝で、完結した昭和36年に単行本として出版されました。私が手にしたのは江戸川乱歩全集という光文社からでている文庫本ですが、分厚い本です。ですから全部を読むということなく、ぱらぱらとめくっていますと、苦楽園に関する記述がでてきました。解読するまでにはいたりませんでしたが、忘れそうですので、ここにとりあえずあげておくことにします。

大正14年の記事で、「探偵ページェント」という項目になっています。

 大阪での探偵趣味の会の一番大きな催しは、大正十四年十月、六甲苦楽園でやった渡瀬淳子一座の探偵ページェントであった。そのときの記事が「探偵趣味」ではなくて、当時大阪で出ていた「映画と探偵」第一号に詳記されているので、次に抜粋してみる。渡辺淳子は沢田正二郎の恋人で、宇野浩二氏の初期の長編「女怪」女主人公であったと思う。芝居は下手だったが、そういう意味で非常に有名な女性であった。又、「映画と趣味」は二号でつぶれた[わけではない]雑誌で、三好正明という人が経営者兼編集長であった。。
「探偵趣味の会十月例会をかねて、渡瀬淳子演劇研究所員のページェントが、十月二十五日午後二時から、阪神沿線六甲苦楽園内で開催された。 越木岩稲荷付近で演ぜられた春日野緑氏脚色探偵劇『幽霊探偵』は探偵助手に扮した松井一郎氏が二階から綱を伝わって降りる途中で、手が辷って怪我をしたほどの猛闘ぶり、吉井康氏の探偵長と坪内都志子の妖術を使う女とが秀逸、終始観客を緊張させたのは流石であった。(中略)この日の観客約五百名、苦楽園として近来稀に見る盛況で、観客の中には大阪朝日の下村専務をはじめ阪神沿線の名士達が婦人令息令嬢たちを同伴しての見物が少なくなかった。
 ページェントが終わってから、会員の記念撮影をしラジウム温泉に浴し、佐々木苦楽園支配人の肝いりで晩餐会を開いた。参会せるもの、江戸川、春日野、横溝、平野、岩崎、顕考(中略)などをはじめ、わざわざ名古屋から来会した潮山長三氏、東京から来られた額田六福氏を同伴した『苦楽』編集長の川口松太郎君ら、それに渡瀬演劇研究所の人々が加わって歓談に花が咲き、一同が山を下って下界の人間になったのは九時すぎであった。

 大正14年の10月25日午後2時から、阪神沿線六甲苦楽園内で渡瀬淳子演劇研究会のページェントがあった。
渡瀬敦子と宇野浩二 http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/wataseJunko.htm
(乱歩はこの当時大阪毎日新聞勤務)http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo5.htm

 越木岩稲荷付近で、春日野緑氏(大阪毎日新聞、探偵小説家)脚色探偵劇「幽霊探偵」が上演された。
http://homepage3.nifty.com/DS_page/kasugano/list.htm

 観劇客には大阪朝日の下村専務(下村海南-苦楽園在住)をはじめ阪神沿線の名士達が婦人令息令嬢たちを同伴しての見物が少なくなかった。

 佐々木苦楽園支配人の肝いりの晩餐会があり、江戸川、春日野、横溝(後略)をはじめ『苦楽』編集長の川口松太郎君ら、渡瀬演劇研究所の人々がくわわって下山したのは九時すぎだった。 


ラジウム温泉について(絵はがき1000円だそうです)
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というようなことが書かれています。越木岩稲荷?これは現在の神社の周辺のことでしょうか。苦楽園温泉から見ると少し位置が離れるのですが、ここで演劇の公演があったのでしょうか。五百人といえばかなりの方が来られたことになります。

渡瀬淳子、春日野緑、川口松太郎などが苦楽園に集まったことがわかります。この人々の名前を個別に調べて行くと意外な人脈がうかびあがります。

この年「苦楽」に『人間椅子』が発表されています。この「苦楽」は中山太陽堂が発行していた雑誌でした。(「苦楽」や登場人物についてはまた後日)「映画と趣味」という雑誌については残念ながらふつうに検索しても所蔵図書館などは見いだ
せませんでした。
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by shukugawans | 2013-08-26 15:55 | Trackback | Comments(0)

幻の弾丸列車計画

戦前、弾丸列車計画というのがあったということをお聞きになったかとも多いと思います。戦後、東海道新幹線が開通には、その弾丸列車計画により買収されていた用地が役立ったとかと聞いたことがあります。

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東京から、下関までの東海道線にかわる、新たな輸送手段として、1940年には、鉄道省が「東京・下関新幹線建設基準」を判定し、帝国議会により『広軌幹線鉄道計画』が承認され、国家が1954年までに開通させることを目標とした十五カ年計画が策定され、用地買収が行われたそうです。

結果的には戦争によって1943年には工事が中断され幻の計画となってしまいました。この計画によると現在の東淀川駅に新大阪駅が作られること、新神戸駅は現在の新神戸駅を西に、神戸駅の北方に作られることが予定されていたそうです。

そして、新大阪、新神戸間は、現行の山陽新幹線と同じく、トンネルを掘ろうとしたそうです。でも今の新幹線のように甲東園でトンネルに入るのではなく、トンネルの入り口は芦屋付近が想定されていました。具体的には東淀川駅から庄内を経て、尼崎市内を通り、西宮北口駅付近では阪急神戸線と併走して走り、芦屋と西宮市境あたりで、トンネルに入るというような計画だったおそうです。

何か記録がないかと思って、神戸大学新聞アーカイブを見てみると。ありました。
1941年8月6日の神戸新聞と、1942年6月2日の報知新聞の記事です。

報知新聞の記事には「決戦下悠々たり世紀の大事業」東京←九時間→下関、京阪神を僅々三十分、実現するか”弾丸列車”国鉄が打樹てる技術陣、とあります。

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京阪神に関わる部分を抜粋すると、以下のようになります。

かくて京都に現れた列車は一直線に大阪に南下するが、ここでは淀川渡河を避けて大阪駅には立寄らず現在省線東淀川駅に新大阪駅を建設してそこから阪急高塚線服部に抜けようとする案で結局注目の新大阪駅は現在の淀川駅に決定をみているわけである服部から現在の省線、阪急神戸線の中間を渡って西宮北口で阪急線とクロスし北上した六甲山中に入りこのトンネルを潜って神戸に現れ、それから山陽線に沿って下関に至ろうという訳であるが、この六甲トンネルは日本一丹那トンネルの二倍強、全長十四キロに及び世界で第三番の長トンネルとして誕生する
このトンネル工事は丹那の如くに土砂の崩潰や湧水は比較的少く案外容易な工事と観測されているがなにしろ全長十四キロに及ぶ掘□作業なのでここから排泄される土砂は約百五十万立方メートルに及びこれだけで相当な小山が築かれようという莫大なもので工事事務所では土砂排泄鉄道を別に建設し内務省の神戸港拡張工事と並行して神戸港埋立土砂に使用しようとする計画を進めている

結局できることのなかった、この路線ですが、できていたら、満鉄のアジア号のような列車が疾走していたのでしょうか。ひょっとして阪急線の北側ですから、さてどこを通ったのでしょう。

下の方のブログにある予測では、
なんと弾丸列車の通過点は阪急以北。
平木中学校の南側から関西スーパー南側を抜けて、大社小学校北側から大井手橋の北方あたりに、さらにそのまま西にいって岩園トンネルのあたりまで地上を走り、
そこからトンネルを掘る計画だったというのです。

その弾丸列車が通ったならば、夙川をわったった位置ですが、
どうも、私がいつも散歩で渡る、川におかれた石のあるあたりのようです。


大谷町から土砂を運搬する鉄道があったという記述ももう少しおいかけてみたいと思います。
http://iso4z.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-50f9.html



お時間のあるかたは下のブログをどうぞ。
このブログをよく見ますと、高圧鉄塔の位置からその路線を推定されています。すごいな...と、思いました。


http://iso4z.cocolog-nifty.com/blog/2012/06/post-deed.html
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by shukugawans | 2012-12-04 01:16 | Trackback | Comments(0)

兵庫県地下文学大系

先日購入した 別冊『関学文芸 選集』
1999年4月18日付で書かれている巻末の解題によって
別冊『関学文芸』について少しわかりました。

関学文芸部が大谷晃一氏らによって終戦直後に結成され機関誌『羅典区』が創刊、
昭和23年には現在も刊行されている『関学文芸』(本来旧字です)が創刊。
活動は1950年代から60年代にかけてピークを迎えたとあります。

別冊の刊行は学院創立100周年記念に特別号を発行しようというOB会の決議から始まります。
1990年創刊で、中心メンバーは,文芸部の活動が一種のピークにあった1950年代に文芸部に所属した人々とのことです。

発刊にあたってはメンバー中唯一の雑誌編集のプロであった東秀三氏がひきうけられたとあります。

ここにも書かれていましたが、
文芸部の活動にも学園紛争による世代間断絶があるようです。


さて、この本の最後に発行元である風来舎が発行した
六冊の本の目録が掲載されていました。

いずれも「兵庫県地下文脈体系」というシリーズです。

その1が、VIKING 選集1
その2が、VIKING 選集2
その3が、AMAZON選集
その4が、七曜選集
そして5が本書でした。


VIKINGは神戸、AMAZONは尼崎、七曜は西宮を中心にした文芸同人だそうです。
俳句や短歌の会に入って投稿する人はまわりにたくさんいますが、小説となると長文を書くのはなかなか時間が許さないのか、あまり聞いたことがなかったので、こういう活動が今日も地道に行われていると知ってちょっとびっくりしました

http://bungei.cocolog-nifty.com/news/2009/05/post-c6f4.html
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by shukugawans | 2012-08-26 11:26 | Trackback | Comments(0)

用海小墓地蔵尊地蔵盆

imamuraさんがお世話されている
小墓地蔵の地蔵盆にはじめて行ってまいりました。

日本盛と用海小学校の間の道にお灯明がともしてあり、
いざなわれるように小墓のお地蔵さんへ

お地蔵さんでも、道ばたにあったりするのではなく、
広い敷地のなかに
ベンチが用意してあり、皆様がご着席されていました。

地蔵本とは、こどものお祭りで昼間にお菓子がでたりすることは
聞いておりましたが、旧市街地ではないので、
実際、地蔵盆のお祭りにお参りさせていただいたのは初めてでした。

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午後七時に御詠歌があがるって、
いったいどういうことかもわkらずに行ったのですが、
「諸国霊場御詠歌五百番和讃入」という冊子にのっている
まさに西国三十三所の観音霊場の御詠歌を
imamuraさんの先導でみなさんが
鉦をならしながら詠ったたのでした。
詠わせていただけるなんて思ってもみませんでした。

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わけがわかっておらず、
大変あつかましいことで、申し訳ございませんでしたga,
どうもありがとうございました。



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by shukugawans | 2012-08-24 23:48 | Trackback | Comments(0)

お野菜

お盆休みがはじまったので、
昨日は幹線道路が大渋滞をしておりました。

夏休みはとれますが、
さて、いつ休もうかと思案中です。
お盆はやはりお休みのところも多いので、
仕事は比較的ゆったりとしたペースですすみますが、
そんな時だから、
たまっている仕事をしてしまうか。
はたまた私も休むかと毎年まよいます。

このところの日照り続きで、
一昨日、長野にでかけるのでと、
野菜の水やりを頼まれました。
しばらく、収穫されていなかったのか、
巨大きゅうり、なす、枝豆などをいただいて、
自生している赤紫蘇を採りました。


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おなす、きゅうりはミョウガ(これも自生してます)、生姜と大葉とみじんに切って、先日ご紹介した山形の「だし」にしました(だし写真は前回のものです)。

赤紫蘇はジュースに、プランターのバジルもバジルソースにしようかと思っているところです。
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by shukugawans | 2012-08-12 10:34 | Trackback | Comments(0)

関学のポプラ並木

昨日ひょんなことから、
上ヶ原にある関西学院大学の周囲はかつてポプラ並木で囲まれていたこと。
当時の院長が囲いを作らないということをモットーに
ある方に寄付をお願いされたとうかがいました。

そういえば先日、kyon-chanが関西学院会館のランチをご紹介くださっており、
関学会館内にあるポプラのランチについて書いてくださっていました。

http://goo.gl/7lSBz
http://member.kwangaku.net/kwangakukaikan/

関学会館は比較的新しく建った同窓会館で、
現在は宝塚ホテルが経営しています。
そして、その会館内の食堂はポプラというのですが...
http://member.kwangaku.net/kwangakukaikan/restaurant/index.html

この記事を拝見した時、
私はそういえば、かつては経済学部の地下に、
おばさんが営業しているものすごく素朴な珈琲の店があったのを思い出しました。

と、その先全く無頓着だったのですが、
そういえば、関西学院とポプラって...、ものすごく関連がありました。
そうです。校歌「空の翼」の歌詞でした。

関西学院が神戸原田の森(王子公園)から、上ヶ原に移り大学となった頃(昭和7年)、
同窓の山田耕作が北原白秋とともに作った曲です。
http://www.kwangaku.net/history/backnumber/2006_11.html

その歌詞は...

風に思う空の翼 輝く自由 Mastery for Service
清明ここに道あり我が丘 関西 関西 関西 関西学院

※繰り返し
ポプラは羽ばたくいざ響け我等 風 光 力 若きは力ぞ
いざ いざ いざ 上が原ふるえ いざいざ いざ いざ上が原ふるえ


なのでした。
http://sky.geocities.jp/satukiwa/kouka.html

実はこの歌詞、なんとなく耳から聞いて覚えると
「ポプラは羽ばたく」ではなくて「僕らははばたく」と聞こえるのです。
特に私が在校したころははだれも、ポプラと思っていなかったのですが、
なぜかというと、学生が普通あつまるあたりにはポプラかあまりなかったからでした。

関西学院にポプラが寄贈された話はネット検索ではうまくでてこないので、
もう少しきっちり調べてから書きたいと思いますが、
「関西学院」、「ポプラ」で検索さると、関学会館のレストランか、校歌がヒットして
実際のポプラについては殆どでてきません。

ただ、ちょっとした書き込みによれば、どうやら
昭和3年上ヶ原キャンパスができた時に植えられたようです。
http://library.kwansei.ac.jp/e-lib/KG-shinbun/KGSHINBUN036.pdf

そして、どうも学生運動の時に伐採されたようでもあります。


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Mission 関西学院大学スペシャルサイトには
1990年 ポプラ並木の風景復活へ募金が始まるという100周年記念行事について書かれています。
この時800万円の寄付が集まり5mの高さの苗木が30本植えられたとか。
http://www.kg-mission.jp/explanation/tracks/index4.html

こんど近くを通ったらポプラ並木を確認してみます。
たしか、グラウンドあたりにはあったと思いますが...
なかなか知っているようで知らないことが多いとっきょうもまた気づかされました。
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by shukugawans | 2012-04-11 22:53 | Trackback | Comments(0)

昭和11年玉筋魚飴煮

飯島幡司さんの『南窓集記』の目次を見ていて、
偶然「玉筋魚」の文字をみつけてしまいました。

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たぶん、先日の魚谷常吉さんが昭和10年に書かれた『滋味風土記』を見ていなければ読み飛ばしていただろうと思います。

こちらは、東京と大阪の社交倶楽部に集まる方々の話題とか雰囲気の違いをまず冒頭に語っておられます。大阪倶楽部に何かことのあるときだけひょっこりと顔を見せる千万長者の老人についてです。
(億万じゃなくて千万のところが時代を感じさせます)
この老人、財産を長男に贈与したものの、亡くなられて、自分が再度相続し、さらに三男に贈与して、三度相続税を払ったとかいって、満座笑い転げるようなタイプの大金持ちだったようだ。
以下イカナゴの登場するくだりを、引用してみましょう。

この翁にも道楽があって、有馬の別荘で作るところの山椒の実を煮て知己に分かつ。これを私もときどき頂戴した。近頃はまた塩屋の別称で漁れるイカナゴを飴煮にして方方の厨房を賑はしてゐるよしを披露して、さて、しみじみとした顔で、
「家内揃ふて山椒の実をよりわけてゐると、憂世はなれてええ気持だつせ」と仰せあるに人人また「よういはんわ」と笑ふ。
 それから数日ののち、思ひがけなくも、拙宅へイカナゴの飴煮が届いた。それに翁の自筆と思はれる色紙が添へてある。淡路島を前に六人の漁夫が裸で網を曳いているのどかな風景である。その上に
  いかなこの漁に賑ふ春の磯
と俳句のやうなものを書いて、その横に「召上り御意に候得ばわる口をいはぬよう」とのお叱りである。
 財千万を積んで齢古希を重ねても、朝晴暮雨これ世間のことと嘆いてはゐられぬところに人の世を柔げる愛嬌がある。 


(一一・四・二〇)と文末にあるので、昭和11年に書かれたものと思われます。
幡司さん、この時はどちらにおすまいだったのだろうか。やはり塩屋あたりでイカナゴを飴煮にしていたのだということがこの文章からもよくわかります。

すぐ悪くなるので、地元でしか食べられておらず、おすそわけの場合は飴煮など濃い味で調理するということだったのでしょう。
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by shukugawans | 2012-03-30 22:43 | Trackback | Comments(0)

ひょうご古本市の収穫

ひょうご大古本市で、300円均一の本を七冊買いました。

昔ほるぷから出ていた名著復刻全集 近代分学館というシリーズのうちの
『吾輩は猫である』中編。この猫のイラスト以前初版を見たときから好きです。


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武者小路実篤が文章を書き、岸田劉生が装丁をしている『カチカチ山と花坂爺』です。これも手にとってなんとはなしに読んでみたい装丁ですので、欲しかったのですが、300円ならばということで買いました。

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同じく装丁ということで、森田たまの招かれぬ客。きもの好きだけあって、装丁に凝っているというお話でしたが、ちょっとぼろぼろですが、なるほどと思って読むにはちょうどよいお値段です。

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もう一冊は安藤更正先生の『南都逍遙』。安藤更正は会津八一先生のお弟子さんですが、早稲田出身の先輩たちのからよく耳にしたお名前、いつか南都を逍遙するときによいかと思って購入しました。

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さらに古美術関連、広田不狐斎の『骨董』。これは過去に読んだことがあるので、ひょっとすると持っているかもしれませんが、まあ300円だから伊井か...。

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全然違う系統の本で、『翻訳者の仕事部屋』深町真理子。海外ミステリー好きにとってはものすごくお世話になっている翻訳者の方。いったいどんな方なのか記になりました。

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そして最後が、飯島幡司『南窓集記』。 
さて、なぜこの本を買ったかというと、この名前の方は確か昔近所に住んでおられたような気がしたからでした。昭和14年の随筆なので、ならば関西のことが書いてあるに違いないと思いました。

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ネット検索すると、デジタル版日本人名辞典にお名前がありました。

1888-1987 大正-昭和時代の経営者。
明治21年5月12日生まれ。神戸高商教授をへて大阪鉄工所(現日立造船)専務。昭和7年朝日新聞にはいり論説委員となり,のち朝日放送の社長,会長。カトリック教徒として日伊親善につくした。昭和62年1月11日死去。98歳。大阪出身。東京高商(現一橋大)卒。筆名は曼史。著作に「キリスト教の社会観」など。
wikiによれば、神戸高商の教授だった1918年に、久原財閥の久原商事に入社。大阪鉄工所(現日立造船)の専務を務め、経営難に陥っていた同社を立て直したという経歴の持ち主だそうです。

何冊か著作もおありのようで、読んでみようと思います。
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by shukugawans | 2012-03-30 22:09 | Trackback | Comments(0)