古書や骨董が好きです。歴史など調べるのことが好きですが、結構あきっぽく中途半端です。素人ですが、見たこと、聞いたこと忘れないうちに書いておきたいと思います。
by ふく
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西宮八景 考

西宮八景というものがあります。
津努晴嵐 広田夕照 御前帰帆 神呪晩鐘 鳴尾落雁 名次秋月 今津夜雨 武庫暮雪

北宋の頃に、洞庭湖とそこに流れ込む瀟水と湘江が合流するあたりを瀟湘といい、代表的な八つの景観を選んだ瀟湘八景まで遡ることができます。水墨画、漢詩とともに日本に伝わり室町時代には博多八景が選ばれたといわれます。

日本では室町時代に近江八景が、江戸時代以降各地に広まり、現代に至まで八景が生まれその数四百以上ともいわれます。もちろん中国国内はもとより、朝鮮半島、ベトナムなどにも伝わったそうです。次ぎに、西宮八景と、八景のはじまりともいうべき瀟湘八景と、日本で一番知名度の高い近江八景をあげてみます。

(西宮)  (瀟湘)  (近江)
津努晴嵐  山市晴嵐  粟津青嵐
広田夕照  漁村夕照  瀨田夕照
御前帰帆  遠浦帰帆  矢橋帰帆
神呪晩鐘  煙寺晩鐘  三井晩鐘
鳴尾落雁  平沙落雁  堅田落雁
名次秋月  洞庭秋月  石山秋月
今津夜雨  瀟湘夜雨  唐崎夜雨
武庫暮雪  江天暮雪  比良暮雪

西宮八景について、ある江戸時代の文書のなかにみかけたことがあります。その時は江戸期の西宮の文人たちもこんなことを考えていたんだな程度に思っておりました。ところが、この西宮八景。注意してみていますと、いろいろな所でみかけます。ところが、誰がいつどのような目的で選んだかは、現在ではわからなくなってしまっているようです。

西宮の資料は往々にしてそうなのですが、戦災で原文書がなくなっている場合が多いです。かつて書かれたものを、原典を記さないで引用した書物が多いので、同じような記述が至ところで見ることができますが、実際のところはさっぱりわからないということがあります。

目にした範囲で「西宮八景」についてふれているものをあげてみます。

まず、一冊目は昭和16年に発行された「今津先賢遺文集」の巻末の年表です。寛延二年の項に「西宮八景といふもの定めらる」とあります。(その二年後に西宮の歌人、大田道雄が亡くなっています。)

もう一つは吉井良尚著「西宮の文藝」(吉井良尚選に昭和34年3月の稿として)です。以下のように書かれています。

西宮の歌壇 大田道雄(寛文11~宝暦元 1671-1751)は西宮歌人の随一であった。名は介録・不老水と号した。その門下に教へを受けた者、吉井良行・岡良知・当舎敬貞・東向良達・伊丹屋基嗣、岡本敬嗣、加藤古庵らがあり、よく諸所で歌会が催された。神戸生田神社の神主後神孝秀・同重詮なども参加した。(中略)寛延二年西宮の社家東向良達の主唱によって人々とともに西宮八景の歌を詠進した。八景とは武庫暮雪・神呪晩鐘・広田夕照・名次秋月・津努晴嵐・御前帰帆・曲江夜雨・鳴尾落雁を称する。

今津が曲江という古い表現になっていますが、八景があげられ、八景を詠進した年次が寛延二年(1749)とはっきりと記されています。(ここには出典は明示されていません。同一の文章は西宮市史二巻にも収録されています。)

さらにもう一つ。同じ吉井良尚氏の書かれた「西宮随筆 西宮八景について」が昭和49年5月に発行された「西宮文化」19号に掲載されています。

これによると、「名所西宮案内者」別名を「西宮廣田参詣獨案内」という版本とその写本があり、そこにに西宮八景について少しだけ記されているとのことです。(確認していませんが市立図書館に架蔵されているようです)以下のような歌が記されているとあります。

津努晴嵐  今朝見れば 夜こめの霧も吹きはれて 嵐に残る津努の松原

御前帰帆  淡路潟 あはれ浮き世をうみわたり 御前の浜にかへるつり船

鳴尾落雁  洲によする 浪の鳴尾の浦風に みだれて落つる 天津かりがね

入江夜雨  あま小船 入江の雨の暗の夜に とまのひまもる篝火のかげ

廣田夕照  へだてなく 夕日もかげやのこすらむ 廣田の森の朱の玉がき  
 
神呪晩霜  紫の雲井の山の寺の名を よそに黄楊わたる入相の鐘

名次秋月  秋の夜は いづくはあれど有明の 月の名次の名にや照るらむ

武庫暮雪  暮れゆけば 何処かいづく白雪の 高きや武庫の高根なるらむ

歌が書かれているだけで、誰がいつ詠んだかのについては書かれていないとのこと。この情報の提示に加えて吉井氏はこれがいつ頃から称せられていたかについて考察されています。

まず、前掲「西宮案内者」の成立については凡そ宝永から正徳、享保あたりと考えておられます。それは元禄十四年に刊行された摂陽郡談の記事が引用されているからなどとされています。そして八景の記事に附説がないことがさほど古く無いことを語っているのではないかと書かれています。

そして、氏は此の地方の近隣で名勝を宣伝、顕彰する前例をあげ、魚崎の雀の松原と山本復齋の関係について書かれています。雀の松原眺望十景を詠んだ歌というものがあるとも書かれており、このような風潮が復齋と交友関係にあった西宮神社の吉井良信や吉井良行などに移行したのではないかた書かれています。

ちょっと気になるのは吉井氏は昭和34年の時点では寛延二年、東向良達説をとっておられるのに、昭和49年には誰によっていつごろ称されたかはわからないとされている点です。

寛延二年説を裏付ける文献がでてくればよいのですが。そしてさらに気になることがあります。私が以前に拝見した資料と歌が違うのです。本来ですと、すべて謎がとけてからご報告をと思いましたが、このまま忙しさにかまけて、忘れてしまってもと思いますので、こちらに途中経過を報告しておくことにします。尚、別の歌の書いてある資料は所蔵者のご許可が得られましたら、どこかに発表させていただこうと思います。

※参考資料
「名所西宮案内者」(「西宮廣田参詣獨案内」)西宮市立図書館架蔵
「今津先賢遺文集」昭和16年
「西宮の文藝」昭和34年3月『吉井良尚選集』所収
「西宮随筆 西宮八景について」昭和49年5月に発行「西宮文化」19号

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○写真は八景の一つである名次山、かつて名次神社の鳥居があったという碑文のある場所から、北には甲山が見えています。
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# by shukugawans | 2014-07-18 12:41 | Trackback | Comments(0)

堀辰雄雑記

朝から、本を探しました。

先日行った、岐阜県郡上の奧にある長瀧白山神社に少しだけ関係のある谷崎潤一郎の『細雪』と、司馬遼太郎の根来について書いてある本です。



探すとでてきません...。


探していない本は出て来ました。

昭和52年刊の堀辰雄全集の一、二巻。
(1976年に筑摩から出たものです。この頃以降の本は紙がよいので、古さを感じさせません)
私が持っていたのは文庫のはずですので、
誰か別の人間が買ったようです。

本を開けると、間に堀辰雄雑記と書かれた
雑誌の無造作な切り抜きが挟んでありました。

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こういう破り方をするのは、祖母か父か私か...
破られた雑誌は何だったか。筆者は誰か。
Noriというサインのある挿絵です。

裏の記事などを見ると、文芸誌でもなく文藝春秋などでもなく、ひょっとすると「ちくま」...わかりません。

堀辰雄と萩原朔太郎第二詩集『青猫』
堀辰雄と室生犀星
堀辰雄と芥川龍之介
堀辰雄とエルグレコ『受胎告知』
堀辰雄と川端康成
堀辰雄と角川書店
堀辰雄と立原道造

など、簡単に書かれた見開きで、参考文献が7種あげられています。
福永武彦が書いた意中の文士たち、内的独白などがあがっていますが、読んだことはありません。

堀辰夫は東京府立三中、現在の両国高校出身なんだ...と、思ったりしました。

せっかくなので、最近seitaroさんがとりあげられている『旅の繪』を読んでみました。

読んでいて思い出したのは、別の本のことでした。

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西東三鬼が書いた『神戸・続神戸・拝愚伝』
最初はホテルが常宿だったけれども、空襲を避けて北野の洋館に移るような戦時中の日常を描いた話しだったような気がします。
戦争中の神戸、北野界隈のことが書かれています。
かなり以前から、神戸、阪神間、大阪を描いたものはできるだけ手元に置こうとこころがけていたため、書評を読んで、どうもこの暗い表紙のものを手にいれたようです。(この本はいまのところ見つかっていません)


実は恋愛小説と、サナトリウムもの、戦時中の話しは、不条理の中での葛藤を描いていて、読むのがつらくなるので、殆ど読まないのですが...


細雪はでてきませんでしたが、同じく長瀧白山神社について書いた、
白洲正子の『かくれ里』がみつかりました。詳しくは後ほど。
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# by shukugawans | 2013-09-14 12:33 | Trackback | Comments(7)

江戸川乱歩と苦楽園

明治27年に生まれた江戸川乱歩は早稲田大学を卒業したのち、いろいろな職業を経て大正12年「新青年」に掲載された『二銭銅貨』で文壇に登場しました。

乱歩はその後、初期には欧米の探偵小説に影響をうけたいわゆる探偵小説を発表していますが、しだいに猟奇的な傾向が増し、奇怪ともいうべき通俗探偵小説を書くようになります。そのため、江戸川乱歩というと戦前の女学生が堂々と読むことをはばかるような小説であったことが、北村薫のベッキーさんシリーズ『街の灯』などに出て来ます。

ところで、小林信彦が、谷崎潤一郎邸に原稿を催促にいき、国鉄の夙川踏切で列車事故にまきこまれて亡くなった渡辺温について書いた『夙川事件ー谷崎潤一郎余聞』という一文があります。これはもともと文学界に発表されましたが、『四重奏カルテット』という単行本にまとめられています。

この本は「夙川事件」、「半巨人の肖像」、「隅の老人」、「男たちの話」からななり、江戸川乱歩の推薦でミステリー雑誌の編集長をした小林信彦ならではの作品が集められています。この本のことはまたの機会に書くことにいたしますが、「夙川事件」については乱歩もかつて「探偵小説四十年」ありました。

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『探偵小説四十年』は雑誌に十年以上にわたって連載された自伝で、完結した昭和36年に単行本として出版されました。私が手にしたのは江戸川乱歩全集という光文社からでている文庫本ですが、分厚い本です。ですから全部を読むということなく、ぱらぱらとめくっていますと、苦楽園に関する記述がでてきました。解読するまでにはいたりませんでしたが、忘れそうですので、ここにとりあえずあげておくことにします。

大正14年の記事で、「探偵ページェント」という項目になっています。

 大阪での探偵趣味の会の一番大きな催しは、大正十四年十月、六甲苦楽園でやった渡瀬淳子一座の探偵ページェントであった。そのときの記事が「探偵趣味」ではなくて、当時大阪で出ていた「映画と探偵」第一号に詳記されているので、次に抜粋してみる。渡辺淳子は沢田正二郎の恋人で、宇野浩二氏の初期の長編「女怪」女主人公であったと思う。芝居は下手だったが、そういう意味で非常に有名な女性であった。又、「映画と趣味」は二号でつぶれた[わけではない]雑誌で、三好正明という人が経営者兼編集長であった。。
「探偵趣味の会十月例会をかねて、渡瀬淳子演劇研究所員のページェントが、十月二十五日午後二時から、阪神沿線六甲苦楽園内で開催された。 越木岩稲荷付近で演ぜられた春日野緑氏脚色探偵劇『幽霊探偵』は探偵助手に扮した松井一郎氏が二階から綱を伝わって降りる途中で、手が辷って怪我をしたほどの猛闘ぶり、吉井康氏の探偵長と坪内都志子の妖術を使う女とが秀逸、終始観客を緊張させたのは流石であった。(中略)この日の観客約五百名、苦楽園として近来稀に見る盛況で、観客の中には大阪朝日の下村専務をはじめ阪神沿線の名士達が婦人令息令嬢たちを同伴しての見物が少なくなかった。
 ページェントが終わってから、会員の記念撮影をしラジウム温泉に浴し、佐々木苦楽園支配人の肝いりで晩餐会を開いた。参会せるもの、江戸川、春日野、横溝、平野、岩崎、顕考(中略)などをはじめ、わざわざ名古屋から来会した潮山長三氏、東京から来られた額田六福氏を同伴した『苦楽』編集長の川口松太郎君ら、それに渡瀬演劇研究所の人々が加わって歓談に花が咲き、一同が山を下って下界の人間になったのは九時すぎであった。

 大正14年の10月25日午後2時から、阪神沿線六甲苦楽園内で渡瀬淳子演劇研究会のページェントがあった。
渡瀬敦子と宇野浩二 http://www17.ocn.ne.jp/~ya-na-ka/wataseJunko.htm
(乱歩はこの当時大阪毎日新聞勤務)http://www.tokyo-kurenaidan.com/ranpo5.htm

 越木岩稲荷付近で、春日野緑氏(大阪毎日新聞、探偵小説家)脚色探偵劇「幽霊探偵」が上演された。
http://homepage3.nifty.com/DS_page/kasugano/list.htm

 観劇客には大阪朝日の下村専務(下村海南-苦楽園在住)をはじめ阪神沿線の名士達が婦人令息令嬢たちを同伴しての見物が少なくなかった。

 佐々木苦楽園支配人の肝いりの晩餐会があり、江戸川、春日野、横溝(後略)をはじめ『苦楽』編集長の川口松太郎君ら、渡瀬演劇研究所の人々がくわわって下山したのは九時すぎだった。 


ラジウム温泉について(絵はがき1000円だそうです)
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というようなことが書かれています。越木岩稲荷?これは現在の神社の周辺のことでしょうか。苦楽園温泉から見ると少し位置が離れるのですが、ここで演劇の公演があったのでしょうか。五百人といえばかなりの方が来られたことになります。

渡瀬淳子、春日野緑、川口松太郎などが苦楽園に集まったことがわかります。この人々の名前を個別に調べて行くと意外な人脈がうかびあがります。

この年「苦楽」に『人間椅子』が発表されています。この「苦楽」は中山太陽堂が発行していた雑誌でした。(「苦楽」や登場人物についてはまた後日)「映画と趣味」という雑誌については残念ながらふつうに検索しても所蔵図書館などは見いだ
せませんでした。
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# by shukugawans | 2013-08-26 15:55 | Trackback | Comments(0)

新村出 南蛮更紗

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先日のサンチカ古書市で、新村出の南蛮更紗を購入しました。

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重版ものでしたので、安かったのと、表は少しよごれていますが、
大正年間の刊行物で紙もよく、表紙の更紗風の木綿布の装丁の状態が良かったからです。

新村出という名前はたぶん皆様も無意識に目にされたと思います。

広辞苑です。
http://www.iwanami.co.jp/kojien/

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以前はこんな感じで、先生のお名前が背表紙にありました。
このお写真を載せおられる下の頁が的確にまとめておられます。
http://www.lexicon.jp/pages/kojien.html

第一版は1955年5月25日に発行されました。
新村出編「辞苑」という辞書が1935年にだされており、その改訂・増補だそうです。

この方のお名前、よく見たのですが、
読めませんでした。しんむらかにいむらか、いずる?かと思っておりました。
今ならネットで調べてすぐに覚えるところですが、

そういうわけにもいかなかったので、漢字で覚える。
それがかえって脳を刺激したのか、
それともそうでなかったのかは不明です。

できるだけ、間違った読み方を口にするのは避けてきました。
といっても、まめではないので、辞書をひくのがかなりめんどうでした。
そのため、ながらく「しんむらいずる?」状態が続きました。

今ではこの辞書がテキスト化されており、
携帯辞書やパソコンでも使えるようになっています。

持ち歩けないので、ふだんは岩波の国語辞典を使っていましたが、
文字校正をするとき、一番よく使ったのがこの広辞苑でした。

先日舟を編むを読んで新村先生のことを思い出しました。

新村先生は1876年に山口県で生まれた方で、東京帝国大学をご卒業、イギリス・ドイツ・フランス留学などを経て、後に京都帝国大学に赴任され1935年まで、言語学の講座を持たれていました。

その新村先生が、辞書編纂以外に名をのこされているのがキリシタン研究です。
私は学生時代から日本からヨーロッパに輸出された蒔絵螺鈿の漆器に興味がありましたので、先生の著書の存在はかなり早くから知っていて、「南蛮記」はさらっと目を通したことがありました。

「南蛮」ということば、
いまは南蛮漬け、カレー南蛮、鴨南蛮、南蛮黍などということばがあり、
長ネギや唐辛子などの料理をさして使うといいます。

本来は、中国の中原にいる漢民族が南に住む異民族をさして使ったことばで、
南蛮、北狄、東夷、西戎の四つの夷をさすものの一つでした。

日本は朝鮮半島や薩摩の島々を蛮としていたので、室町末期に日本にやってきた南ヨーロッパから来た人々を南蛮とよんでいたそうです。

新村先生の南蛮、キリシタン研究は、室町末から桃山にかけて来訪した宣教師が書いたキリシタン版といわれる書物の言語学的研究からはじまったと思われます。彼らが書き残したものを通して、言語のみならず、当時の日本の歴史、風 俗などを研究され、『南蛮記』などを書かれています。

http://www.city.kyoto.jp/sogo/hisyo/honor_06.html

『南蛮更紗』は平凡社の東洋文庫に再刊されています。

でも、改造社版と書かれたこの布表紙の本。
新村先生は新仮名遣いや形容動詞を容認されない立場にたたれていたと書かれています。そんなこともあり、この旧版でゆっくり読んでみたくなります。


昔は、話しの筋道を早く知りたくて、自分の興味のあるところだけをさらっと目を通すような読書しかしていませんでしたが、年とともにもっと落ち着いていろいろ学んでおけばと残念になります。
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# by shukugawans | 2013-08-11 11:16 | 古書のこと | Trackback | Comments(0)

シュールレアリストは莫大小下着を着る

古書市最終日、袋一杯つめ放題五百円が気になりましたが、
時間もなかったのであきらめて、
古書市の狙い目はワゴンに数百円で積んである本と書いてあったのを思い出し、
ふと立ち止まると、広告界という雑誌がその山のなかにありました。

「広告界」は誠文堂が1926年から1941年まで刊行していた広告関係雑誌だそうです。購入したのは昭和5年、1930年の2月号です。
この本を含めて「生活美術」絵本特集(昭和18年)と、「商業美術教本」上下二冊の都合四冊の雑誌を700円で買いました。

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雑誌の後ろをめくると、2000円との鉛筆書きがあり、ちょっとうれしくなりました。編集長はグラフィックデザイナーでもあった室田庫造という人だったそうです。

面白そうな記事がたくさんありますが、ふと目にとまった頁、
左側には「春はモスリン」多田北鳥(1889-1947)とあります。

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多田北鳥はキリンビールのポスターが有名だそうです。
http://www.geocities.jp/c50110/hokuu/index.html
http://dspace.lib.kanazawa-u.ac.jp/dspace/bitstream/2297/444/1/AN00044182-65.pdf
モスリンは薄手の平織りの羊毛で、戦前の普段着の着物の素材として用いられました。そういえば尼崎と大阪の境の神崎川に付近にあったモスリン工場が初代の橋を架けたという毛斯倫大橋が今でもあるそうです。

そして右側を見ると、こちらは例えばシャツの広告とあります。
モダンな画風は東郷青児です。
東郷青児も広告デザインの仕事を手がけており、戦前から安田火災の仕事をしていました。
http://www.sompo-japan.co.jp/museum/exevit/024.html

東郷青児というと独特な女の人の絵が頭に浮かびます。朝日会館にあったレストランアラスカの壁画も担当されたそうで、確か小学生の頃に好物だった阪神百貨店のアラスカにも壁画とはいきませんが衝立があったと思います。カレーとアイスクリームを待ちながら、この妙な女の人の壁画が少し不気味だと思って見ていました。

シャツの絵と女性の絵は直ちにリンクしませんが、同じく現損保ジャパン(元安田生命)がご所蔵の「超現実派の散歩」。シャツの絵を見てふと思い出しました。

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シャツ着ているの人と似ていました。この絵は1929年で雑誌は1930年。作品とシャツの広告は...妙なところで繋がっている。当時は今と違い純粋美術と商業美術を分け隔ていた時代と思っていました。でもこんなこともあるんだ、..... 、と、思いました。

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# by shukugawans | 2013-05-03 18:17 | 古書のこと | Trackback | Comments(0)